潟端の歴史を伝えていく “かて飯”

鳥屋野潟周辺は、かつて大小の「潟」と湖沼が点在し、木舟で人や物資が水路を行き交う水郷でした。私たちはここでデザインの仕事をしながら、時折ここで生まれ育った方から、かつての潟端の暮らしの様子を教えてもらっています。その話から、今とは違う水辺の豊かな暮らしが浮かび上がってきました。潟につながる水路で泳ぎを覚えた少年たちは、やがて鳥屋野潟を泳ぎ切ることで大人デビューを果たしたそうです。また周辺の集落では、潟からの水を竹筒で引いて飲料水にし、潟の魚やヒシの実をとり舟に積んで沼垂の市場に売りに行きました。子どもたちもまた、舟で学校に通っていたそうです。

私たちU・STYLEの社屋があるこの地は、上沼と呼ばれていますが、昔周辺の田んぼには川をつたって海水があがり、それを防ぐために石澤奥松と杉山太郎助という水門番が赴いたといわれています。私たちが仕事をするこの場に、水門があったことを想像するとき、水門番は毎日どんな気持ちで潟からの風を感じていたのだろうと想像が膨らみます。


さて、大雨で潟が氾濫することもあり、この地の稲作は容易ではありませんでした。農家は地主への年貢と販売米の白米を確保し、残った古米や屑米を自家用にしていました。そして 古米や屑米を大根や大根の葉でかさ増し炊込んだ“かて飯”を食べていたそうです。

若い娘が「これを食べるくらいだったら農家に嫁に行かない」と思ったほど、それは不評だったそうです。けれどそうしながらも命をつないできたこの地の人々のたくましさや忍耐強さを、私たちは“現代版かて飯”をつくることで語り継いでいきたいと思いました。毎年のように襲ってくる風水被害と戦いながら米を作り、 土地を守ってきた先人を思いながら、 潟端の野菜とその出汁で炊き込んだかて飯は、 素朴で懐かしく力強さを感じさせます。シンプルな調理方法で作れる点も、潟の暮らしに合っていると感じます。作って味わってもらいたい一品です。

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